田村正勝コラム:大衆民主主義および社会の変貌----「官僚政治」から「忖度―独裁政治」へ?----


(一)行政国家と社会の政治化および組織化された大衆民主主義

法治国家と自由主義経済の変貌

 先進諸国では1929年の世界大恐慌を契機として、国家が経済政策および社会政策によって、大々的に経済社会に介入するようになった。なぜなら経済は、慢性不況から自らの力で脱出することができなくなり、また階級対立も激化する一方となり、経済社会つまり市民の側が国家の政策を要求したからである。

 

 こうして国家が大々的に経済社会の中に介入してくると、社会はできるかぎりの経済政策や社会政策を要求し、さらには福祉国家として、国家が国民の生活を保障することが当然視されるようになる。たとえば日本では、不況になると必ず補正予算が組まれ、公共投資による景気浮揚策が導入される。

 

 しかし他方で「自由経済」も主張される。自由経済であれば、不況になっても、本来ならば経済自身で立ち直るべきであるが、産業界はもとより国民一般も、景気浮揚のための財政金融政策を政府に要求してきた。もはや自由経済とはいえない。要するに国家は単なる「法治国家」から「行政国家」に変わり、政治が政策主体として社会に介入するところの「政治国家」となった。

 

民主主義から組織化された大衆民主主義へ

 このように国家が経済社会の諸問題を解決する施策を導入するにつれて、市民は国家に対する要求を次第に強めてくる。そして要求を効果的にするために、市民は利害関係を共通にするグループ間で組織をつくり、その組織の政治力を行使するようになった。たとえば経団連、労働組合連合、医師会、全国農業協同組合連合会、全国消費者団体連合会をはじめ、その他多くの利益団体が形成されている。

 

 それゆえ民主主義はもはや、単なる民主主義でなく「組織化された大衆民主主義(organized mass-democracy)」(難波田春夫)に変質した。このような民主主義の下では、社会の国家に対する要求は強まる一方である。

 

 またこれと並行して、社会は価値観を異にする多くのグループに分裂し、それぞれの組織が自分たちの代弁者としての議員を国会に送り込み、国家や行政の恩恵を自分たちにより多く向けさせようとする。それゆえ国会はこれらの利益団体の「パイの分奪り競技場」となっている。

 

(二)行政国家と官僚政治----官僚制の特質と弊害

官僚制の特質と弊害----合法性と正当性の混同

 これらのプロセスから、行政の仕事は多種多様となり、無際限に増大してきた。しかし国民から選ばれた議員は、必ずしも専門的な知識をもっていない。M.ウェ-バーによると国会は「ディレッタントの集まり」であるから、これらの多種多様な要請に応えられない。したがって国会で法案が決められるが、それは官僚が創った法案の承認にすぎない。たしかに議員の手による「議員立法」はかなり限られ、実質的に官僚政治となった。一般的には「政治はむしろ日常的な行政処理に委ねられ、官僚政治が支配的」(ウェーバー)となっている。

 

 ちなみに「ディレッタント」の語源は、ルネッサンス期のイタリアで生じた「ディレッターレ」である。当時は「ギリシャに帰れ」が叫ばれたが、ディレッターレ自身は、ギリシャの文芸、詩歌、演劇などにあまり通じていない。そこで、これらに詳しい「フマーナー」を招待して講演させた。このフマーナーが「ヒューマニスト」の語源である。

 

 それはともかく、こうして政治は実際には、「民主主義政治」から「官僚(公務員)政治」に変質し、官僚自身が行政目標を立て、これを法案化している。そこで幾つかの問題が生じる。第一に公務員は「責任倫理」によって、先ずは何よりも「合法性」が要求される。行政は合法的な手段であることが不可欠だ。この合法性の重要性から、「合法性と正当性の混同」が生じる。つまり「合法」であれば、それが「正当」であると見做され、これが、しばしば深刻な問題をもたらした。

 

 たとえば水俣病は、1956年に因果関係が公式に確認されていたのに、当時の通産省と厚生省の「窒素水俣工場は合法的であり、なお広範囲の検討が必要」との主張ゆえに、有機水銀の垂れ流しが放置された。そして水俣病が公害病に認定されるのに12年もかかった。同様なことが、アスベストはじめ幾つかの問題についても言えよう。

 

曖昧な責任と「省益・庁益・局益」および情報問題

 第二に官僚制はピラミッド型のシステム、つまり縦は「命令―服従」、横は「権限で画される」関係である。そのため官僚の任務と責任は各部門の部分責務となり、システムや仕事の全体を捉える思考に欠ける。また権限で画される「各省庁の縦割り行政」が、非効率と無駄を生みやすい。

 

 いうまでもなくピラミッドのトップが全体の責任を負うが、それは形式的責任にすぎない。トップは仕事全体に係わることも、これを理解することも不可能であるから、実質的な責任をとれない。全体の問題性について、誰も事前的もしくは行政の実行プロセスにおいて知りえないゆえ、結局は事後的に形式的責任をとることになる。

 

 第三に官僚は「最小費用で最大効果」をあげる責任倫理を課せられているが、これが護られにくい。仕事の効率化よりは、むしろ「省益や庁益さらには局益」が優先されがちである。ここから各省庁による「予算の分奪り競争」が一般的となった。これが、縦割り行政とあいまって行政の肥大化と非効率および無駄の温床となった。国家予算は拡大し、とりわけ日本では財政の累積赤字が止まるところがない。

 

 たとえば日本のODA(政府開発援助)は、ほとんどの省庁がばらばらに手がけてきた。しかし各省庁に、これを有効に分配する十分なスタッフがいるわけではなく、したがって無駄なODAが、これまでも随分と指摘されてきた。ようやく最近になって、これが内閣官房のもとに一元化されることとなった。

 

 このように官僚制の弊害が少なくないが、さらに「合法性と正当性の混同」や「部分責任の問題性」ならびに「省庁の予算の分奪り競争」のすべてと関連して、官僚自身で、さらには政治家と組んで「情報」を、政党やマスコミおよび大衆に対して操作するケースも少なくない。

 

 たとえばアメリカのイラク戦争に際しての、当局の情報コントロールは否定できない事実であった。また日本でも、たとえば郵政事業の民営化に関する議論において、当局は巨額の費用をかけ地方テレビを通じて民営化の喧伝をした。このような露骨なコントロールは例外的であるが、一般的に民主主義に反するような情報操作が見られる。

 

(三)忖度政治から独裁政治へ

 議員立法が多くなれば、このような官僚政治による民主主義の形骸化をある程度は抑制することができる。しかし官僚でなく国会議員が自ら法律を立案するところの「議員立法」は、国会議員にとって容易ではない。もともと官僚は専門的な知識を備えているが、少なからぬ国会議員が、先述のとおり専門的な知識に欠ける「ディレッタント」であるからだ。

 

 これに対して官僚を政治家がコントロールできれば、こうした官僚政治からある程度脱却することができる。それを試みているのが安倍政権である。そのために安倍政権は、上級公務員の人事権を内閣官房が握るという手段を導入している。中央省庁の幹部公務員約600人の人事を取り仕切る「内閣人事局」を設置した。その結果、すべての公務員の人事権を握ったと同じような効果を発揮している。

 

 この人事権制度の下では、上級公務員は自己の出世のために安倍政権の意思どおりに動き、この意思が不明瞭でも、首相の思いを「忖度」して動く。下級公務員も同様な理由から、上級公務員の顔色を窺いながら仕事をする。したがって、こうした人事権制度を導入すれば、たしかに「官僚が支配する政治」を克服できる。

 

 しかし、それは「民主主義政治」の回復ではなく、「忖度政治」への転落である。公務員全体が、自分より上級の公務員の意思を忖度し、それが法律を犯すことにもなりかねない。森友問題や加計問題について推測されるとおりだ。この忖度は、とくに上級官僚の現政権に対する忖度から始まり、やがて公務員システム全体に広まるであろう。

 

 これは与党の「一党独裁政治」どころか「首相独裁政治」に近づく。実際に自民党のOBが心配を表明しているように、現政権に対する反対や意見を開陳する自民党議員が極めて少なくなった。かつての自民党は、内部において様々な意見が表明され戦わされた。自民党内の各派閥がそれぞれ、あたかも別の政党であるかのような体をなしていた。

 

(四)二大政党論と小選挙区制の誤謬

 日本でもかつては自民党と社会党の2大政党により、議会制民主主義が正常に機能していたと言われる。しかし実態は、自民党も社会党も、内部に派閥を抱え、これがそれぞれ政党と同様な役割を果たしてきた。それゆえ「二大政党論」は実態とかけ離れた「政治学論」であった。もっともこの政治論は必ずしも日本に限られないが、しかしイギリスの政治を手本として学んだ「日本の政治学」に強い傾向である。

 

 したがって日本では、二大政党が議会制民主主義の正統なあり方だとして、これを強引に創造するために「中選挙区」を廃止して「小選挙区制」を導入した。けれどもこれによって、市民の多様な意見を正しく汲み上げることができなくなり、また選挙における「死票」が多くなった。同時にこれが政治に対する大衆の無関心をも助長している。

 

 ちなみに2大政党の議会制民主主義の典型と言われたイギリス、ドイツ、スエーデンでは、「神が予定しておいた人間だけが救われる」という「予定説」のプロテスタントが支配的であった。この影響から強いリーダ-シップが容認する国民のエートスが育ち、それゆえ政治は2大政党となり、いずれかが政権を担うこととなった。しかし現在では、ここでも大衆の価値観が多様化して、たとえば「緑の党」や幾つかの「右翼政党」をはじめ、多くの政党が連立し、「合従連衡政権」が生まれている。

 

 これに対して「神のもとの平等」を説くカソリックが支配的であるフランス、イタリア、スペインなどでは、強いリーダーシップは容認されない。したがって常に少数政党の連立であり、政権はこれらの合従連衡である。ただし合従連衡政権の妥協と脆弱さの反動から、ドゴール政権などの例外もあった。こうして見ると、日本では「八百万の神」の理念が流布されてきたから、どちらかと言えば、カソリック諸国のエートスと政治にちかく、多党連立が自然の在り方だと言えよう。

 

(五)官僚制の社会的な広がりと自由の喪失

 ところで官僚制組織は政治の世界に限られない。官僚制はたしかに形式的機械論的な制度ではあるが、これが正当に機能している場合は、合理的かつ民主的な組織である。したがって官僚制は次第に社会全体に広まってきた。企業でも労働働組合でも、組織が拡大すれば、官僚制的な組織とならざるを得ない。

 

 それゆえ個人はこの官僚的機械的組織の中に、専門的な一つの歯車として組み込まれるようになった。このことから個人の本来の「創造性」や「全人性」ないし「自由」が抑圧される傾向が強まっている。

 

 多くの市民が豊かな生活を求め高給を求めて、専門職を追求して「専門家」を心掛ける。そしてこの専門家は、企業と言う巨大な官僚的機械的な組織の中に、一つの歯車として組み込まれていく。こうして全人性を発揮できずに、自由を失っていくのである。ちなみにマックス・ウェーバーは、これは近代文明の不可避的な傾向だと説いた。

 

 しかし「物的な豊かさと幸福とを同一する」ところの「経済主義」が克服されれば、これは不可避だとは言えまい。いまや少なからぬ人々が、一方で専門的な知識を追求しながら、他方で余暇の充実やボランティアに精を出して、経済主義を克服する傾向が出てきた。とくにEU諸国では、80年代からこうした傾向が強まってきたが、日本でも最近の震災ボランティアなどに典型的に見られるとおりである。

 

 さて議会制民主主義は、先の官僚政治を克服することが重要であるが、現政権のやり方では、「忖度―独裁政治」となってしまう。官僚政治でも忖度政治でもない民主主義政治を回復する道はあるのか。その重要な一つが、EU諸国が導入している「経済社会協議会」である。これに関しては稿を改めて述べることにしたい。ところで今年の流行語大賞は「忖度」だろうか。