(1)民主主義と官僚政治
政府の56の機関統計のうち22統計で問題が見つかった。厚生労働省の「毎月勤労統計」の違法性が強調されたが、その他でも国土交通省、経済産業省、財務省、農林水産省などでも、必要な手続きを怠っていたり、記載漏れがあったりなど、統計に対する「おざなりな態度」が明らかとなった。何故か。この問題を官僚制とは何かというところまで掘り下げて検討してみよう。
官僚制は古代エジプトや中国にまで遡ることができ、紀元前2000~3000年以来続いているが、近代国家の成立に伴う官僚は、国王に仕える「ロイヤル・サーバント」であった。これが民主主義革命を経て、国民に仕える「公僕(パブリック・サーバント)」となっている。このように官僚は、「支配者が被支配者を支配するための手段」であり、本来は官僚自身が自ら目的を設定することができない。
いうまでもなく今日の民主主義社会において「目標」を設定するのは、形式的には国民であり、国民の代表組織である「国会」であるが、実際には官僚が目標を設定し、それを実行している。その原因の第一は、国会は「素人の集団(ディレッタント集団)」(マックス・ウェーバー)であるから、国会議員は目標を設定する知識に欠けるからだ。
第二の原因は、国家の課題が膨大となっているから、公務員試験をクリアした「専門家」である官僚の知識に頼らざるを得ない。現代国家は、国家が社会や国民の様々な要求に応える「行政国家」さらには「福祉国家」となっている。したがって国民は様々な「利益者集団」を形成し、その代表者を国会に送り込んで国家に要求する。それゆえ国会は「利益者集団のパイの収奪場」と化し、国家の課題は増大する一方である。これに応えられるのは専門知識を持つ官僚であり、政治は「官僚政治」となっている。
(2)官僚システムによる「合法性」と「正当性」の混同
この官僚制度は、縦は「命令・服従関係」、横は「権限関係」に枠づけられたピラミッドシステムである。上司の命令には絶対的に服従しなければならない。また自分の権限を越える仕事を処理すれば、それは「越権行為」となり無効である。こうした組織は融通性に欠けるが、組織が大きくなれば、このようにして統率をはかり、仕事を組織的に遂行するほかはないから、企業でもその他組織でも多かれ少なかれ、こうしたシステムとなっている。
さて官僚の倫理はどのようなものか。支配者の目標を忠実に実行するのが、官僚であるから、自己の心情に基づいた「心情倫理」は排され、与えられた目標に対する最も合理的な手段を追及するところの「責任倫理」である。それは具体的には、何よりも先ず「合法的」な手段を選択し、さらに「最小費用で最大効果」をもたらす手段を実行するという倫理である。
このような官僚倫理から生じる重要な問題は、第一に「合法性」を重視するあまり、合法的ならば問題ないとする実践が生じること、つまり「合法性」と「正当性」が混同されることである。たとえば水俣病は、1956年に因果関係が公式に確認されていたのに、当時の通産省と厚生省の「チッソ水俣工場は合法的である」とういう主張ゆえに、有機水銀の垂れ流しが放置され、さらに水俣病が公害病に認定されるのに12年もかかった。
(3)省益・局益と組織拡張
第二の問題は、「最小費用・最大効果」が守られ難く、各省の予算要求は増大する一方である。とりわけ問題なのは最大効果が、しばしば「官僚にとっての効果」の「省益」や「局益」が目指されることが少なくない。たとえば途上諸国などに対する「ODA(政府開発援助)」を、従来は各省庁がバラバラに行い、ほとんど全省が予算を計上して各省庁の仕事を意図的に拡大し、予算を膨張させてきた。
しかし各省庁に、ODAを分配する十分なスタッフがいるわけではないから、これは余りにも不経済で、また効果が疑わしい。それゆえ今日では「海外経済協力会議」のもとに統合され、その議長である内閣総理大臣の下、内閣官房長官、外務大臣、財務大臣および経済産業大臣が重要事項を機動的かつ実質的に審議するようになった。
さらに「原発問題」を取り上げよう。最近まで経済産業省の「原子力安全保安院」に関連の課が16課もあり、ここに総勢800人の公務員が働いていたが、現在でも実態はあまり変わっていない。またこれに関連する傘下企業には、2万人が雇用されるという膨大な組織である。
ところで東日本大震災の後しばらく全ての原発が止められたが、電力は足りていた。しかし現在、経済産業省は、原発なしでは電力不足が生じるという理由で、原発の再稼働に踏み出した。さらに三菱重工がトルコで、日立製作所がイギリスで「原発建設計画」を推進するのを、経済産業省は「国策」として後押ししたが、結局は頓挫している。
これらには、原発関連官僚と電力業界ならびに日立製作所、三菱重工、東芝、さらには「関連学会」などの、いわゆる「原発村」の利害および先の2万人雇用に配慮した「経済産業省の意向」が働いている。もっとも、これは原発村の擁護ばかりでないであろう。原発事故から明らかになった「原発廃炉技術」の重要性に鑑みて、その技術や人材を維持するために、海外市場に活路を求めたとも見られる。しかし、この戦略は方向転換を余儀なくされている。けれども経済産業省は未だ方向転換を示していない。
ちなみに07年の中越沖地震で、出力820万キロワットの「柏崎刈羽原発」が火災で停止し、電力供給がストップしたが、停電は1度もなかった。これに対して東日本大震災で止まった「福島第1原発」の出力は250万キロワット、また被災で同様に停止した「相馬火力発電所」は200万キロワット弱、したがって双方を合わせても「柏崎刈羽原発」の半分程度の出力に過ぎない。
それにも拘らず東日本大震災の時は、経済産業省が、アメリカの要請に従って「計画停電」を導入し、原発の必要性を訴えた。アメリカは日本に核燃料を輸出しているゆえ、日本国内で「反原発運動」が生じるのを危惧したからだ。要するにこの計画停電も、官僚によるアメリカ忖度と「原子力村」の防衛ためであった。ちなみにアメリカは1979年の「スリーマイル島の原発事故」に際して、計画停電を導入している。
(4)内閣人事局と忖度および形式的な責任
官僚制度の第三の問題は、厳格な「上意下達」からも生じるが、その典型例が「森友問題の忖度と自殺」である。財務省の高官は「安倍忖度」により、森友学園に不当に安価な値段で土地を売り渡した。これは「合法性」および「最小費用・最大効果」の「官僚倫理」に反する。けれども上司からこれを命じられた下級官僚は、この命令に服さざるを得なかった。同時に自らの良心の呵責から、自死の道を選んだ。
なお「安倍忖度」は、2014年に設置された「内閣人事局」の弊害とも言えよう。この内閣人事局は、主に幹部公務員の人事を一元管理する役割を担い、その対象は中央省庁の幹部(部長、審議官以上)で、対象人数は600人ほどにも上る。適格性審査を経て作成された幹部候補者名簿に基づいて、各省庁の任命権者である大臣が内閣総理大臣、官房長官と協議して任命を決めるという制度である。ここから高級官僚の「安倍忖度」が生じるが、「森友」や「加計」は、その氷山の一角に過ぎない。
官僚制の第四の問題は、官僚制が先述のような「ピラミッド型システム」であるため、官僚の任務と責任は「各部門の部分責任」となり、システムや仕事の全体をとらえる思考に欠ける。また各省庁の縦割り行政が、非効率と無駄を生みやすく、その全体責任を負うのはピラミッドのトップが負う。しかしトップは仕事全体にかかわることも、理解することもあり得ないから、この責任は「事後的」に「形式的責任」となるだけである。
厚生労働省の「裁量労働制をめぐる労働時間調査」や「毎月勤労統計調査」の改ざんや、ねつ造、統計法律違反は、このようなピラミッド型官僚システムから生じている。なお「勤労統計調査」の法違反は、「最小費用・最大効果」という官僚倫理の誤った解釈にも由来する。
違法調査でこれまでの平均賃金を安く計上すれば、雇用保険や労災保険の政府からの給付額を節約できる。したがって、これは「最小費用・最大効果」の責任倫理にかなうと誤解し、違法調査を放置してきた面もあろう。さらにはアベノミクスにより「賃金上昇」が拡大したように見せる「安倍忖度」の意図もありうる。
(5)官僚制度の欠陥をいかに克服するか
これまで述べたとおり官僚制度は、厳格な「命令・服従の縦係」と「権限で画される横関係」のピラミッド型であるが、そこから官僚の責任が部分責任に止まり、さらには責任の希薄化や誤解が生じる。とくに合法性の絶対化から、合法的なことが正当であることと同一視され、あるいは「最小費用・最大効果」の内容が誤解され、さらには省益や局益が重視されがちである。56の機関統計のうち22統計に問題があったのも、このような官僚制度に由来する。
さて官僚制度のこのような不祥事、非合法性、杜撰さ、無責任性は、現在の「民主政治」即「官僚政治」の実態からして、直ちに「民主政治」そのものの侵害に他ならない。それゆえ国民は官僚政治を、常に厳格に監視しなければならない。この点で、とくにマスコミは重要な責任を負う。したがって国民はマスコミに対しても、厳格な監視を怠るべきでない。
ところで先述のとおり組織が大きくなれば、事業の効率的な遂行のために、それは官僚制的な組織にならざるを得ない。日本の大手企業である鉄鋼、自動車、機械メーカー、その他の最近の「品質検査不正」も、このような国家官僚制の不祥事と類似した面がある。それゆえ企業は、企業統治(コーポレート・ガヴァナンス)を厳格にすべく、とりわけ企業の上級役員の責任感と矜持が大切となっている。
(一般社団法人「日本経済協会」2月下旬号のコンパスの小生の論文より転載)