社学の学問と社学稲門会への期待

 

社会現象は視点により「経済現象」や「法律現象」あるいは「社会現象」などと捉えられるが、純粋な「経済現象」「法律現象」「社会現象」などはあり得ない。したがって社会諸科学のいずれか一つで、社会現象をトータルに捉えることはできない。社会科学も厳密な科学であろうとして合理主義(分析主義)に基づき、社会現象も学問をも分割し「科学の専門特化」を進めてきたからだ。

 

 

因みにM.ウエーバーは、「全体認識の否定」が科学の宿命だと主張した。たしかに科学の専門特化は、厳密性という点では進歩と言える。しかしその結果、いずれ社会科学も現実の現象から乖離し、問題の解決に余り役立たない「無用の長物」の感さえ帯びてきた。そこでヨーロッパでは、とりわけ1960年代に入るころには「社会科学の総合化」が叫ばれるようになった。

 

 

しかし日本では殆どの大学において、なお社会科学の専門特化に主眼が置かれていた。そのような状況下で「社会科学の総合化」を目指す最初の学部として、「早稲田大学社会科学部」が創設され、総合化の基礎学として専門必修科目の「社会科学方法論」が創設された。

 

 

実はこの科目は「社会科学原論」として文部省に申請したが、文部省も従来の大学教育思考にとらわれ、そのような総合的な学問は認可できないと返答してきた。それゆえ止むを得ず「社会科学方法論」と命名したが、実績を上げたある時から「社会科学原論」と、講義本来の名称に変えた。

 

 

他方でその後、社会科学部の成果とヨーロッパの学問の流れに影響され、日本でも広島大学、東京大学を皮切りに、社学と同様な学部が陸続と創設されている。それはともかく「社会科学方法論」「社会科学原論」を担当した小生としては、今日までの社会科学部の発展を、卒業生の奮闘と社会貢献はもとより、このような学問の展開の意味も含めて、喜ばしく感謝している次第である。

 

 

ところでプラトンの「アカデメイア」もA.スミスの「道徳哲学」も、50年間の隆盛の後は廃れたが、これ以外の多くの事例からも、学問の第一寿命はおよそ50年だと思われる。それから長い年月を経て再び世に役立つ学問として甦る。我が社学も数年前に50周年を迎えた。したがって、同様な50年の寿命の時期に差し掛かっている。

 

 

けれどもこの第一寿命を持続させなければならない。とくに生態系の撹乱、民主主義と市場経済の社会システムの機能不全、モラルの退廃の三つが重なり、近代文明が危機に瀕している今日において、社学の理念はますます重要となってきた。ここに「社学稲門会」の、いっそうの慈愛と健闘を念じ、「社学稲門会25周年」に寄せて「愛語には革命にもちかい力がある」という次の句を添えます。

 

 

「むかひて愛語をきくは、おもてを喜ばしめ心を楽しくす。向かわずして愛語をきくは、肝に銘じ魂に銘ず。しるべし愛語は愛心よりおこる。愛心は慈悲を種子とせり、愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり」

                    (『正法眼蔵』菩提薩埵四摂法)

           *社学稲門会No.22に寄稿した文章の転載です