人間への道-----「自由と誇り」および「思いやり」

「自由」と「誇り」および「人格」

  新型コロナウイルスのパンデミック的な感染を防ぐために、日本でも首都圏の移動自粛をはじめ、その他の地域でも、同様な自粛や「在宅勤務」が推奨されるに至った。多くの人々がこれを護り、自分を護り、社会にも迷惑をかけないように心掛けているが、これは人格を有する社会人として当然の義務と言えよう。では人格さらには義務とは何か。

 

 日本では古来「ひと」に「霊留」もしくは「霊止」の漢字を当てたが、これは「霊魂」が留まる存在が人間であり、この「たましひ」が人格の背後にある力の源泉だということである。すなわち「いのち(生命)」を発する力が「たましひ」で、これが人格の中心であり、したがって人格は霊界や霊的次元にまで繋がっているという理解である。

 

 英語では「個人」に「インディビデュアルindividual 」もしくは「パーソンperson 」の語を当てるが、前者は、もはやdivide (分割)できないという意味であり、これは人間だけを指す語ではなく、様々な物体に関して使われる。しかしパーソンは人格をもつ人間だけを指し、これは古代ギリシャの俳優の仮面をさす「ペルソナpersona」に由来する。

 

 俳優は仮面をつけて役割を演じるが、この語源から明らかなように「人格」はその人の社会における独自の役割とくに「職分」と結びついていた。しかしこの人格は、「社会のための人格」ということになりがちだ。そこでカソリックの社会教説は、このような人格思想を否定し、人格の所以は、人間はみな神の「かたどり」であり、神のペルソナを映すところにある。その限りにおいて、みな平等であり兄弟であり、重要人物(VIPvery important person)であるという。

 

 西洋の人格思想はこのように二つの系譜と内容に分かれるが、先の日本の霊界につながる人格思想は、カソリックの人格思想にちかい。それはともかく近代社会になると、カソリック社会教説における「人格」は、中世社会ほどには人々の心をとらえていない。また社会における役割と結合した人格思想も、ますます揺らいできた。自分が社会にとって代替不可能な役割を果たしているとは、考えにくいからだ。

 

合理主義による「合成の誤謬」と人格の揺らぎ

  たとえば職場でも居住地でも、自分だけしかできない役割を見つけることは困難である。職場では、他の人でも代替可能な仕事を任されている。さらには機械が替われる仕事、最近ではコンピュータが替われる仕事をしている。ヤスパースは、このような近代人の特質を否定的な意味において「代替可能性」と捉え、ここに生じる近代人と社会の根本問題を指摘したが、それは、今日のAI技術によっていっそう深刻となってきた。

 

 このような社会では「人間の尊厳性」も「人間の気位」も、「西欧の中世社会」や「日本の封建時代」におけるほどには維持できない。それは一方で宗教意識も封建時代のような強固な「地域共同体」も薄れたからだ。他方で情報機器やAIが発展し「リストラ」が横行する現代社会では、人間の代替可能性がさらに高まり、「気位」が失われる傾向が顕著となっている。OECD(経済協力開発機構)の推計によると、先進諸国の平均で、労働人口の1割がAIによって代替され、日本では15%の約1000万人が代替されるという。

 

 中世や封建時代の社会では、自由が制限され自律した個人としての生活が制限さていた。それにもかかわらず、多くの人々が「気位」をもち、自分に「誇り」をもち、他人から尊敬もされた。他方で現代社会では、個人の自由と自律は尊重されているが、気位も人格の尊厳も実質的に侵されがちとなった。しかし、これらのいずれも人間の真に望ましい姿ではない。人格は、自由で「自律的な個人」と「人間の気位・誇り・尊厳性」との両立の下に形成され維持されるべきものである。

 

 近代文明は、企業においては「効率と利潤の極大化「」を、科学も「技術の最適化」を、生活においては「安逸便利快適さ」を、「合理主義思考」に基づいて、それぞれバラバラに追求してきた。その結果、個人の「自由と尊厳性の両立」の困難さと、「生態系の撹乱」の二つの「合成の誤謬」に陥っている。これらを克服できなければ、近代文明は崩壊する。それゆえ、このバラバラな思考を総合的に見直すことが不可欠だ。

 

 ちなみに第二次大戦後の西ドイツ経済復興の立役者エアハルト首相は、「カネを失っても大したことはない。やる気を失えば大変だ、誇りを失えば終りだ」と国民を叱咤激励した。

 

過去・現在・未来の人格に対する責任と道徳

 人格を有する人間は本来、地域社会や国民共同体さらには世界と人類共同体に対して、義務を果たす責任を負っているはずだ。そのような共同体の維持と発展のために貢献することが、「道徳」である。しかしこの道徳の基準は「自己」ではなく「社会」であるから、いわばヘーゲル的な「他律的な道徳」である。また先のペルソナ的人格と繫がる。

 

 これに対してカント的な「自律的な道徳」もある。自分の「人間としてあり方」を自分に命じて、それを護るという道徳である。これはまた他人を「目的」として、つまり自分と同様な「自由な人格者」として扱うことを、自分の義務とすることでもある。ここで「他人」とは、現在の他人ばかりでなく、過去および未来の人々も含まれる。この他人に対する義務という点では、「他律的道徳」も「自律的道徳」も一体となる。

 

 たとえば亡くなった父母や恩師は、「自由な人格」に基づき自分を育ててくれたが、自分は人格を有する人間として、彼らの人格に見合う義務を果たす責任がある。これは「過去の人たちに対する道徳」である。他方で我々は、将来世代の人々にも、彼らが「自由な人格」を発揮できるような「社会」と「自然」を残す義務と責任を負う。

 

 先述の「生態系の撹乱」は由々しき事態であり、未来の人々に対する道徳心に著しく欠けている。これを復元する責任を果たさなければならない。自然の生態系を回復し、地域共同体から人類共同体に至るまで、未来の人々が「自由な人格」を発揮しうる社会を、形成し残さなければならない。それは未来に対する当然な「思いやり」であり「道徳」である。

 

思いやりの希薄化と孤独

  ギリシャ哲学は「人間は共同体(ポリス)的動物」だというが、その核心は「思いやり・共感」にある。しかし科学技術文明は人類に多くプラスを齎したが、その反面で、この人間の本質を奪いつつある。特急列車が車窓からの景色を奪い、沿線の人々の生活を思いやる意識を薄めた。スマホが面と向かう会話の機会を奪い、同情や共同体意識を薄めている。

 

 その他「共感・思いやり」の希薄化、それゆえの「人々の孤独化」が深刻となっているが、これに関する例は枚挙にいとまがない。イギリスは、「カルヴィニズム」もしくは「イギリス国教会」の教義に由来する「個人主義」が強い国民性だが、ここでさえ「思いやりの希薄」の潮流から、多くの国民が孤独に悩み、ついに政府は「孤独担当相」と「自殺予防担当相」を置き、さらに国家統計局の「孤独の指標」を制作している。

 

 また「アメリカン大学」では、大学生の39%が「鬱と不安」の症状だという調査結果だ。アメリカ疾病対策センター(CDC)によると、2006年から2016年の間に、1017歳の自殺率が70%、黒人に限ると77%それぞれ増えたという。

 

 日本の現状はさらに深刻で、1998年から2011年までの14年間に、自殺者数は年間3万人を超え、現在でも2万人台だ。しかしこの3万人は、自殺遂行から24時間以内に亡くなった人数であり、その後に亡くなった人も含む年間総自殺死亡者数は、5万人を超えた。テロも戦争もない現在の日本で、14年間に70万人以上が自ら命を断っている。

 

テレワークとボランティア

  このように「思いやり」の希薄化が、「テレワーク」や「AIに拠る仕事の剥奪」などで更にすすむ。しかし既にこれらに対する反省も生じており、例えばアメリカではIBMやヤフーはテレワークを廃止し、グーグル、アップル、フェイスブックなどはテレワークに積極的でなく、必要な時はこれを利用できるが、普段はオフィス勤務する社員が一般的だという。加えて新オフィス、無料の社員食堂、車の点検サービス、多様なサークル活動を提供し、出社したくなるオフィス作りをしている。

 

 他方で現在は「新型コロナウイルス」の蔓延・パンデミックを防ぐために、テレワークが活用されているが、その効果は大きい。しかしテレワークを導入したアメリカの企業の日常時の例では、ほとんど毎日テレワークが終了した時間に、多くの従業員が企業周辺の飲食店に集合し、同僚との談笑を楽しんでいたという。

 

 要するに人間は「共同体的動物」であり、孤独には耐えがたく、したがってテレワークで効率も低下した。それゆえにIBMもヤフーもテレワーク廃止し、グーグル、アップル、フェイスブックなどの、本来テレワークを率先しそうな企業が、これを抑制しているのである。今回のコロナ問題により、今後のテレワークに期待する専門家の見解が少なくないが、再考を要する。コロナ対処のためのテレワークは、超例外的事態である。

 

 ただし介護や育児などを抱える社員にとっては、「テレワーク・在宅勤務」は必要不可欠ゆえ、この双方のバランスが大切だ。とくに「介護離職者」が年間10万人、その8割が女性という日本の実情においては、この点に関するテレワークの普及が重要だ。同時に彼らが孤立しない方法をも工夫すべきである。

 

 他方で日本では「阪神淡路大震災」以来、ボランティア活動が活発になってきた。震災や豪雨あるいは台風によって生活基盤を奪われた人々に対する「思いやり」が、様々なボランティアを産んでいる。ボランティア活動は19.4万グループの707万人、個人のボランティアを合わせると、19年4月時点で合計880万人に達している(全国社会福祉協議会)。また今回のコロナ問題に際しては、様々な場面において、多くの人々の多様な「思いやり」が発揮されている。これは「危機に瀕している近代文明」の「一条の光」である。