有機体的自然観-----人間と自然の共同体
近代文明は「科学技術」を展開し、自然を支配して「自然破壊」とりわけ温暖化を深刻にした。それゆえ今や「自然防衛」の役割を果たす「エコロジー」が注目される。科学は自然の各部分を機械論的にバラバラに考察するが、エコロジーは自然全体を「有機体」とみなして、自然の各部分の相互関係を重視する自然観である。
古代ギリシャの自然哲学や仏教、さらには儒教や道教の自然観も、「自然全体の意味」を重視し、それと人間との関係を説いた。たとえば老子は、万物を産んだ天地は「根源無差別の道」に由来するから、人為を去って道に従へと説く(老子「体道、養身」)。道元は「山に帰り、山を喜ぶ、深山幽谷に住むことを理想とす」と述べて、「行雲流水」を尊んだ。このような思考から「僧侶(禅宗の僧)」が「雲水」と言われるようになったのであろう。
また江戸前期の儒学者の貝原益軒は『養生訓』で、天地万物を創る「自然の気」の生命力を「根源の気」と捉えて、これを受け取り養う「元気」を説く。また二宮尊徳の「報徳思想」は、我々の父母の上に「太父の天」と「太母の大地」が存在するゆえ、この「太父母の恵み」に報いるべく農作に精魂を尽くせと言う。もともと日本では古代から自然が尊ばれ、万葉集には自然を愛でる歌が極めて多い。また「徒然草」も「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」と述べる。
近代西欧でも例えばシュバイツァーは「生命への畏敬」から、すべての生命体と人間の生命との親和関係を説く。スピノザも全ての自然を産みだす普遍的な「能産的自然」と、そこから生じる個々の自然「所産的自然」を説き、人間も所産的自然であり能産的自然に繫がっていると言う。
ドイツの哲学者のシェリングは、これを受けて自然の「無限志向性」と「分節志向性」を説く。無限志向性は自然の永遠の命と力で、どこまでも続いていく。そして分節志向性により自然の無限の命を分けて、個々の自然を形成していると言う。さらに人間の思考もこの双方の志向性を受け継ぎ、無限志向性が宗教や哲学を、分節志向性が科学を追求すると説く。
ところで72年にローマクラブが『成長の限界』を発表してから、次第に資源の枯渇と自然環境問題に対する注目が強まってきた。そして1978年にはブルントラント・レポート『われら共通な未来』で「持続可能な開発」が謳われ、92年には「国連環境開発会議」が開催された。ここで「アジェンダ21、リオ宣言、生物多様性条約、森林原則声明、気候変動枠組み」の5つの条約が採択された。
自然の権利訴訟と原告適格
これら一連の流れから「自然環境が持つ意味」や「自然」に対する認識が、次第に拡大深化されてきた。はじめは「自然保護」が「現在の経済利益のため」に、さらには「世代間公平」を内包する「人類共通な利益のために」不可欠だということであった。しかしこの思考はなお「人間中心主義」である。けれども1982年の国連総会で採択された『世界自然憲章』は、「すべての生命形態は固有のものであり、人間にとって価値があるか否かにかかわらず尊重されるべきもの、そのために人間は行動を自己規制しなければならない」と謳い、生物の「内在的価値」を認めている。
ちなみにこの憲章に1国だけが賛成しなかったが、それはアメリカであった。すでにクラレンス・モリスは1964年に、生物だけでなく「自然の内在的価値一般」を重視して、「鳥、花、池----野生動物、岩石、原始林、田園の澄んだ空気」にも「法的権利」を与えるべきだと主張した。また72年にはストーンは『樹木が原告適格を有すべきか』において、「自然の権利」を「後見人制度」や「信託人制度」を援用して具体化したが、これは「憲法以前の権利」としての「自然の権利」の主張に他ならない。
アメリカのシエラクラブに拠る「ミネラルキング渓谷のスキー場開発差し止め訴訟」の72年の最高裁判決では、ダグラス判事が「自然(渓谷)の原告適格」を認めて注目された。日本でも「アマミ自然の権利訴訟(アマミノクロウサギ訴訟)」などが、「自然の権利」を主張した。
ところでイギリスの憲法学者の父と言われるダイシーは、小国イギリスが7つの海を支配するほどの強国となった要因は「法の支配」の徹底だと言う。そしてその最大のポイントは「人権が憲法律に先立ってあり、憲法律は人権に基づいて成立しており、その逆ではない」と説く。このダイシー主張を援用すれば、「人間を含む自然の権利」は、憲法律に先立っており、これに基づいて憲法律が成立するということになる。
さて地球の生命体は500万種であったが、産業革命以来その50~100万種類が失われた。また現在の日本でも「絶滅危惧種」と評価される生物は、合計で3,732種(19年に発表データ)。他方でわが国の最近だけでも熱海の土石流災害や、辺野古埋め立て・サンゴ礁の消滅、世界的には温暖化に拠るアメリカ、オーストラリアなどの大規模森林火災をはじめ、人間の作為に拠る自然破壊も後を絶たない。
これらは「科学技術の無防備な横暴」ともいえる展開に由来する。ハイデガーは近代技術に対して「ひとたび技術を開発すれば、その技術の論理に従って人類はどこまでも走らされる」と警告した。たしかにSNSやオンラインなどITに拠る「メタバース(仮想空間)犯罪」「感性の希薄化」「企業効率・教育問題」あるいは「遺伝子操作による生命倫理問題」なども深刻となってきた。
これらいずれも「科学技術の暴走」ともいえる展開に由来する。このような事態に鑑みて「自然の権利」を承認し、我々がその代理訴訟により「科学技術や資本の暴走」を止めるべき段階にまで来ている。最近いくつかの政党が「憲法再考」を言い出したが、憲法再考の焦点は、9条関連ではなくここにある。