文部科学省は「国際卓越研究大学構想」を発表し、その候補大学を公募した。これは「世界トップレベルの研究力」を目指す大学を創るために、政府出資10兆円規模の「大学ファンド」を運用し、その運用益で1校当たり数百億円を支援する構想である。曰く「世界と戦える研究力を実現し、世界から優秀な人材を集められる大学を目指す」と。
この支援により設備、待遇、手厚い研究環境、若手研究者の育成環境も整備する。公募は昨年12月から今年3月迄であったが、東京大学、早稲田大学、九州大学など10校が応募した。これらを審査して「卓越大学」を選ぶが、審査基準はイノベーションを起こす仕組み、年3%の事業成長を実現する財務戦略、若手研究者の支援計画その他である。
卓越大学に認定されると、最長25年間にわたり予算支援を受けられる。これらの構想や審査基準から明らかなように、文科省の狙いは「科学技術」の高度な展開にある。最近の日本の科学技術とりわけAIや半導体 が、諸外国に後れたとの評判を考慮した企画でもあろう。たしかに大学院の後期博士課程のレベルにおいては、このような構想も意味がある。
しかし大学の学部レベルにおいては、このような構想よりは、「大学とは何か」「大学の意義や大学に対する社会の要請は何か」さらには「科学技術の進歩発展の功罪は何か」など、根本的な理念に基づく「大学改革」を構想すべきだ。その基本的立場の上で、はじめて「国際卓越研究大学構想」も有意義となる。
真理探究要請と科学技術の弊害
そもそも「学問の自由」が憲法で保障され、そのコロラリーとして「大学の自治」がある。したがって大学は「無条件の真理探究」の場であり、社会が大学に「時代に阿ることのない徹底的な真理探究」を要請している。なぜなら真理探究への希求は、人間社会の本質であるゆえ、社会はその充足を大学に求めている。
だがそれは必ずしも「実学」で満たされる性質のものではない。社会が求めている真理は「展開されている社会自身の意味づけと方向」「来し方を反省し、行く末を見極めうる理念、一条の光」である。大学は、この「社会からの根源的要請」に応えるべく、日々努力しなければならない。
たしかに近代文明は「合理的思考」により科学技術を発展させ、人類に多大な貢献をしてきた。しかし他方で科学技術が「自然環境」を破壊し、これを放置すれば「50年以内の近代文明崩壊」が確実視される。自然破壊、地球温暖化、漁業資源の枯渇、種の多様性喪失、土壌侵食・酸性雨、水不足、化石燃料の枯渇、化学物質汚染と地味の劣化、世界人口の激増・食料不足など、問題は無尽蔵だが、これらの殆どは「科学技術」により助長されている。
文科省の「卓越大学構想」が、このような実態を考慮しているか疑問だ。たとえばAIや通信技術の進展に伴ってスマホ、ホームショッピング、ホーム・バンキング、オンライン会議、オンライン診断・診療など大いに便利となったが、他方でSNSに拠る「個人情報の流出や自殺」も頻繁となった。また「国民背番号制」による中央集権体制の強化をはじめ、多くの問題が生じている。
日本の伝統と「良質なタブララサ」の教育
ところで「大学の大衆化」が言われて久しいが、学生は大学に何を求めているのか。大学で広く学び、世界について理解を深め、人生の意味を考えたいという「根源的問いかけ」「有意義な人生とは」という問いかけであろう。しかし大学の大衆化に伴って、多くの学生が社会へのパスポート、将来の成功へのパスポートを大学に求めている。だがこれは社会通念に流された漠然とした目標に過ぎない。
実は科学技術に拠る諸問題が、今日ほど明白でなかった1960~70年代にかけて、「産学協同」に反対する「学生運動」がヨーロパや日本で極めて盛り上がった。これは「産業のための学問」という文部省や大学の方針に対する抗議であったが、同時に「パスポート論」に対する反発にも繫がっていた。
パスポート論に執着する学生は、ともすれば企業に役立つ「専門的な知識」を求めるあまり、広く学ぶことを怠りがちである。しかし日本の社会が求めている人材は、専門的知識よりは、広く学び先の「社会の根源的要請」に応えるべく学んだ人材である。なぜなら社会は「社会および企業内訓練」によって、人材を社会や企業の要請に合うように養育する。したがって「良質の白紙(タブララサtabula rasa)」の人材を求めてきた。
これは日本の伝統の「共同体」意識から、企業においても「企業共同体」への適合を優先するためだ。これに反して「競争社会」の傾向が強いアメリカでは、大学は社会に出るための資格を獲得させる「プロフェッショナル教育」が伝統的である。ちなみにイギリスのブレアが提唱した「ステークホルダー社会」は、日本の企業共同体から学んだと言われる。
またアメリカでも最近は、企業の秘密保持や連帯性を強めるため「企業共同体意識」が要請され始めた。逆に日本でもプロフェショナル教育が求められる傾向もある。しかし先の科学技術による諸問題に鑑みて、大学は先ず「良質な白紙」の人材を養成すべきであり、学生もこれを追求すべきである。
近代文明の危機----自由の喪失と人間離脱病
マックス・ウェーバーは、合理化と近代人の自由について、第1に各人が自分の究極的価値に基づいて目的を構想し(価値合理性)、第2に各人は所与の目的に対する「合目的的な手段」を自由に選択すると言う。しかし経済社会においては、後者つまり「目的・手段合理性」が重視される。なぜなら目的に対する手段の合理化が、自由を追求する経済的ゆとりを産むからでであり、「価値合理性」が軽んじられる。
その結果、合理的な手段体系が独り歩きをはじめ、近代人は即物化して「全人性」を失い、分割された「特殊な専門人」となる。また社会は施設的な制度ほどまでに秩序化され組織化され合理化されて「官僚制的社会」となる。したがって各人は、こうした「機械的社会」に歯車として組み込まれ、自由を失う。その結果、近代人は「全人性」を失い、「精神なき専門人」「信条なき享楽人」に堕落していく。これがウェーバーの近代文明に対する診断であった。
先の国民背番号制だけでも明らかなとおり、ウェーバーの予告がかなり正鵠を射ているが、核・生物その他の兵器開発、DNA・遺伝子操作、AI技術一般、宇宙開発をはじめ、今日の多くの科学技術の結果も、これを助長してきた。
他方ウエルナー・ゾムバルトも、今日を「経済時代」と断定し、近代人と社会を否定的に捉えた。第1に各人は合理化のあまり「形而上学的・超越的関係」の認識を弱め、信仰心を失って「人生の意味」を失う。第2に人々は都市に追いやられ「自然との関係」を失い、第3に他人との関係の「共同性」も失い「砂粒のような関係」となる。こうして人々は内面的な共通者なしの「孤独」に陥って、「人間離脱病」に罹っている。これがゾムバルトの診断であった。
さらにゾムバルトは、これらから「物質主義」「快楽主義」「安逸主義」が必然的となるが、このような欲望追求は満足させられることなく、逆に「魂のむなしさ」を引き起こし、不安に陥って「敵愾心」をもたらすと断言した。実際こうした社会的状況が、概して世界中にはびこっている。
たとえば「アメリカン大学」では、大学生の39%が「鬱と不安」の状況だという調査結果だ。イギリスでは「孤独担当相」「自殺予防担当相」を置き、国家統計局が「孤独の指標」を作成している。また日本では最近はやや減少してきたが、1998年からの14年間に、自殺が原因で死亡した人が年間平均5万人、合計70万人超となった。冒頭の「卓越大学の構想」もや、これに応募した大学も、このような世界状況を熟慮することが重要であろう。