科学技術の発展と人格の軽視
技術は「自然観」と切り離せないが、15世紀ごろまでは、洋の東西を問わず「有機体論的かつ生態学的な自然観」であった。それゆえ人間も包括的な自然の一部であり、これに反する生活や技術は否定された。しかし16世紀以降は次第に「機械論的自然観」が台頭し、自然は「人間によって解釈される対象」と考えられてくる。ここから「科学技術」が展開されてきた。
そこで例えばベーコンは「知は力なり」と主張したが、この思考から展開された技術は、従来の「自然から学び、これを模倣する技術」ではない。科学の解釈に従って「造れるものは何でも造る」という科学技術観へと展開した。
しかしこのような物理学的な自然の解釈から生まれる技術が、社会を変容させ、人間が社会の単なる「歯車」といった状況に貶められてきた。こうして今日の人間の多くが、ヤスパースが見通していた如く、いつでも「他人」やコンピュータをはじめとする「機械」によって代替される「代替可能な人間」となり、「人格」を持たない動物と同様に扱われがちである。
IT・AIの利用による文明の危機
IT及びAIの普及が目覚ましく、いまやこの技術や知識なしに生活も仕事も儘ならないほどだ。だがこれらの技術使用に関する問題も深刻。2000年のILO報告「職場のメンタルヘルス(IT使用に関するレポート)」では、IT使用以降「うつ病」が増加し、アメリカでは生産年齢人口10人中1人が、イギリスは同3人が、EU諸国も同様に多くが「うつ病」を患っている。
それゆえ当時「うつ病対策費」がアメリカは300~400億ドル、EUはGDPの3~4%にも達したが、このEUの額を今日の日本に移せば20兆円ほどに相当する。しかし日本はこのような「対策」を導入しなかったから、「ITうつ病」も急増したと思われる。なぜなら日本の自殺死亡者数は1990年代以降急増し、98年は3万2863人、ピークの03年は3万4427人と11年までの14年間は毎年3万人台の自殺者数が続いた。
もっともその後は減少したが、それでも23年でも2万1837人。ちなみに日本のこの警察庁統計の自殺死亡者数は、自殺から24時間以内の死亡数。全自殺死亡者数は、98年からの11年間に毎年5万人超で合計70万人超だ。戦争もテロもない日本で、信じられない自殺者数だ。
さてAIについても問題が指摘される。まず「経済協力開発機構(OECD)」の推定では、今後AIで代替される労働人口が先進諸国平均で労働人口の1割、日本は15%の1000万人。したがって先進諸国の労働者の6人に1人の5.4億人が貧困化の可能性があると言う。
他方でアメリカの非営利団体「AI安全対策センター(CAIS)」は、「生成AIによる人類絶滅リスク」を警告し、パンデミックや核戦争と同様に、世界の最優先課題として対処すべきと主張している。そしてこの警告に、次のような学者や専門家350人が署名している。オープンAIのサム・アルトマンCEO、トロント大学名誉教授ジェフリー・ヒントン、AIグーグル・ディープマインドCEOデミス・ハサビス、テスラのイーロン・マスクCEOなど。
生成AIが誤情報、文章や絵画・音楽および画像など文化一般に「特定の価値」を反映させ「社会全体」をコントロールし、倫理観や人間の在り方など「文明」をコントロールし、人類絶滅のリスクに繋がると言う。したがってEUは「生成AI 利用の包括的な規制法案」を導入した。またG7は巨大AI企業の寡占を阻止すべく「国際的行動規範」を合意した。
科学技術の挑発から逃れうるか
ところで生成AIに限らず科学技術およびその産業化は「大気・水質・土壌汚染」「地域共同体の弱体化」「精神と文化の劣化」など、産業技術のプラスを凌駕するほどのマイナスをもたらしている。
たとえば世界保健機構(WHO)によると、22年の「温室効果ガス濃度」は、産業革命前の1.5倍と過去最高で、23年は12万5000年以来の史上最高に暑い夏であったと言う。どのような研究からの結論か分からないが、ちなみに本年はさらに高温。また大気汚染が原因で年間670万人が死亡している(WHO)。
さてテクノロジーの語源はギリシャ語の「テクネー」で、これは「露顕された真理や美」を意味し、技術と芸術の区別がなかった。そこでハイデガーは「潜伏している真理」が、人間を挑発し「用立て」のために科学技術を要請すると言う。そして科学はこの「挑発の激しさ」に負け、人間に「真理の本質」を見失わせ、人間を破滅させると主張した。
要するに人間は、技術の論理が引いた直線上をどこまでも走らされ自滅するということだ。確かに化学合成や遺伝子操作により、ナイロン、ビニロン、多くの新素材やクローン生物をはじめ自然界になかったものを合成する。また「動物臓器の人間への移植」さらには「クローン人間の可能性」など、倫理的問題も引き起こしている。問題は核兵器ばかりではない。
こうして人間も自然生態系の一部であり、その中で生活するほかないことを忘却しがちで、人間が支配者であり、自然を支配し変容できるという思考が広まった。しかしその結果「温暖化」はじめ、先の近代文明の3つのマイナスが次第に拡大している。科学技術の推進は、これらの視点を熟慮すべきだ。
自然性と人間性への道
しかし、このことは近代科学を完全に否定することではない。自然に対するアプローチは「解釈される自然」(カント)である他はない。また全く人為の加わらない自然は恐ろしく、ヨーロッパ中世では「森」は、天変地異と同じく恐ろしいものの代表物であった。
自然法則を利用して技術を発明するのも、人間の自然性であろう。周知の「天工開物」のとおり、自然の法則の「天」と人間の工夫の「工」の双方が相侔って「物」ができるが、これも自然のことだ。これは自然性に適った「生き生きとした自然」を発展させる工夫である。そのためには「自然解釈と技術」が、本来の自然性を見失っていないか、「人間中心主義的な見地」に立っていないか、常に反省をしなければならない。
それは物理学や化学の妥当する世界をもって、これが自然だと理解するごとき世界観を反省することだ。物理や化学の法則は、一定のパラダイムを前提にして、全ての世界を物質とエネルギーとの関係で捉え、それを定式化したもの。したがって、この法則は、自然が正しく働いているか否かに関係することなく、これを全ての事物に当て嵌め妥当させてしまうからである。
この反省を欠くと、老朽化すると見苦しくなる建物や、DDTや原爆など害悪を拡散する物質を作る。自然性に適う建築物やその他の創作物は、年月を経るとともに、それなりに美しく、また性能が増すといえる。例えば「薬師寺」は千年の檜の柱で建てられたが、建立後30年以上を経て木組みが固まり、化粧柱が同時に構造柱となり、大地震にも耐えて千年間もびくともしなかった。
要するに自然と人間が接近してゆく道を工夫することだ。自然性や人間性を課題とする「自然性への道」や「人間性への道」を工夫することである。これは「自然による人間」と「人間による自然」との双方を止揚した第三の立場であり、どちらか一方の立場だけに立つことは誤りである。