日本の人口減少と年金問題
23年に生まれた日本人の子供は72万7272人で過去最少となり、「合計特殊出生率」も1.20と過去最低であった。出生数は16年に初めて100万人を割り、22年には80万人割れ。24年1~6月も前年同期比2.3%減の33万人割れ(24年68.7万人推計)で、少子化に歯止めがかからない。そこで政府は「異次元の少子化対策」を掲げ、昨年末に「こども未来戦略」を閣議決定した。
他方で23年現在の人口は、外国人も含めて前年より59万5000人減少の1億2435.2万人で、13年連続の減少である。このうち75歳以上の人口は71万3000人増の2007万人と、初めて2000万人を超えた。逆に15歳未満人口は32万9000人も減少して1417万3000人であった。
これらから2050年には1人暮らし世帯(単独世帯)が、全世帯の44.3%に達するという(国立社会保障・人口問題研究所)。このような急激な人口減少から、「老齢保障」をはじめとする多くの社会保障の将来が疑われ、定年までに2000万円以上の貯蓄(老後資産)が不可欠とも言われる。
他方で人口減少から「空き家」も、23年10月時点で全住宅の13.8%の900万戸、すなわち7戸に1戸が空き家となっている。この一事をもってしても明らかなように、30年にも及ぶ日本の「消費不況」の大きな要因が人口減少である。これらから「年金」も「財政問題」も深刻となってきた。
人口動態の三段階と婚外子
日本の「合計特殊出生率」は、1966年に1.58まで落ち込んだが、その後はベビーブームで上昇した。だが1989年には1.57にまで落ち込み「1.57ショック」と言われた。一般に世界の人口動態には、その地域の経済社会の発展段階と関連する段階がみられる。
まず死亡率が高いために人口が増えない段階から、生活環境の好転や医学の恩恵で死亡率が下がって、人口が著しく増加する段階へ進む。これは現在の発展途上諸国の状況だ。次に第三段階は、出生率が次第に低下するために、人口がほぼ一定となる状況である。
これは日本など少し前の先進工業諸国の段階であったが、いまや先進諸国の多くが、この段階を通過し「出生率低下・人口減少」の段階となっている。とりわけドイツやスウェーデンは、日本より早く人口減少問題が生じていた。1980年の合計特殊出生率は日本が1.75、ドイツ1.54、スウェーデン1.67であった。しかし2020年では日本1.29(23年1.20)、ドイツ1.52、スウェーデン1.67と、日本のほうが低くなった。
ちなみにフランスは1980年が1.96、2020年1.79と比較的高い出生率を維持しているが、韓国はこれと対照的で1980年が2.72であったのに、20年に0.89まで低下した。フランスは「子供を社会で育てるという政策」を導入し、それが効果を発揮している。スウェーデンもこれに倣い、同様な政策を導入して出生率減少を防いでいる。
ところでフランスとスウェーデンの「婚外子」の割合は、2019年でそれぞれ61%と54.5%と高いが、日本と韓国は2.3%と1.9%と世界中で最も小さい。このように子供出生数は、それぞれの地域や国の人々の意識や慣習ならびに社会環境に依存すると言えよう。ちなみに世界の婚外子の割合は、チリ72.7%、イギリス48.2%、アメリカ40.0%、ドイツ35.5%、イタリア28.0%、オーストラリア34.0%などである。
共同体の希薄化と契約社会の覆い----なぜトラ?
このように国によって状況がかなり異なるが、先進工業諸国の出生率の減少の要因は、いずれの国でも似通っている。経済格差が大きく貧困者が増加し、結婚し子供が欲しくとも、それが経済的に難しいこと、子供養育費が増大していること、女性の社会進出に伴って結婚する人が減少していることなどである。しかしこれらの直接的な要因ばかりでなく、人々の考え方が変わってきたことも大きい。
ドイツでは子供養育手当が充実し、大学まで教育費も無償であるのに出生率が減少している。そこで国民の意識の転換について、ドイツに関して描写してみよう。1984年に西ドイツの2時間半のテレビドラマ「離婚」は、離婚に至る「夫婦の心のヒダ」ではなく、次のような「離婚の手引き」といった内容であった。
夫婦はどのような弁護士を選び、何を相談しておけば良いのか、裁判はどのように進められるかなどのドラマ化である。ポイントは財産の分配をどうするかであった。当時の西ドイツでは結婚する際に、離婚する場合の財産の分配について詳細な契約書を取り交わすのが慣例だと言われた。
工業化の進展や経済の成熟化に伴って、社会における共同体的要素が失われ、社会は合理的な契約社会となってき、家庭さえも契約社会となってしまったのだろうか。すべてを合理的に割り切ろうとし、さらに信仰をも含めて一切の超越的な関係を否定するならば、それは「人生の意味」を失うことにも繋がる。
同時に人々は共同体を失い、他人や自然との親しい関係をも失って、内面的な共通者を持たずに孤独となってゆく。その結果、人々が追及するものは富の増加による「生活の安逸」だけとなり、ここに物質主義、快楽主義、エゴイズムに走る傾向が強まる。
この傾向から日本でも「価値観」が多様化し、最近は「結婚は『コスパ』や『タイパ』が合ない」という未婚者も少なくない。いずれにせよ限りない欲望の追及は、満足されるものではない。逆に「魂のむなしさ」を引き起こして不安に陥り、「敵愾心」さえもたらし「不自由」だと感じるようになりがちだ。今回のアメリカ大統領選の結果は、その象徴的な例だと言えよう。インフレや外国人の流入などの直接的な要因の背後に、この根本問題がある。
ボランティアと三位一体の人間観
文明の「春夏秋冬」を解明したシュペングラーは、100年ほど前に次のように予言した。近代文明は19世紀中葉から冬の時代に入っており、人口減少が持続し、同時に「空洞化した民主主義」とともに「知性」が破壊され、21世紀になると、無制限な戦争が続くと。またトインビーも1970年の日本における若泉敬との対話で「もう民主主義は終わりだ」(『トインビーとの対話』毎日新聞、1971)と述べた。
しかし工業社会のこのような閉塞状況が反省され、次第に弊害を克服する動きも展開されている。日本でも1995年の「阪神淡路大震災」を契機に、ボランティアが活発となってきた。95年のボランティアは6.3万団体、団体以外の個人を含むボランティア参加総人口は505万人、2011年は19.8万団体と868万人、15年が26.9万団体と612万人、23年が18.9万団体と613万人である(社会福祉協議会集計)。
震災や豪雨、台風、津波によって生活基盤を奪われた人々に対する「思いやり」が、様々なボランティアを産んだが、これは当然に「地域共同体」を重視する社会観や、M・ウェーバーの指摘した「精神なき専門人」「信条なき享楽人」の反省にも繋がっている。
同時に自然環境を重視し、「人間と自然との共生」を大切にし、近代的な「人間中心主義」の行動や思考を抑制する方向も出ている。人間は本来「社会と自然の双方の環境」「心」「身体」の「三位一体」としての存在である。この人間の本来の在り方の自覚と行動が、ボランティア社会を契機として広まるであろう。