「ロゴスの導くままに」(ソクラテス)というのが、私たち学問するものの心掛くべき態度でなければならない。難波田先生は、常日頃、このように指導された。不肖の弟子の私には、ロゴスの導きなど見えないが、先生のご生涯は、ご研究ばかりでなく、あらゆる面において、この確信に貫かれていたと思われる。
戦前に洛陽の紙価を高められた『国家と経済』以来、ロゴスの導くままに研究を深められ、大学ならびに学会において多数の後進を育成された。また先生の透徹した見解は、政財界ならびに労働界に多大な影響を与えてこられた。さらに難波田理論は、ドイツの学会でもっとも注目された学問の一つであり、その論文はシュモーラー年報に掲載され、20世紀を代表する社会哲学と評価されている。いずれもこれらは、全く私心のない「ロゴスの導き」に従われた先生のご生涯であったからこそ、と痛感する。
私事で恐縮だが、昭和42年8月1日の松本深志高校の穂高岳の落雷で、私は弟を亡くしたが、その際に先生から速達をいただいた。一新聞記事に田村という名を見たが、お前の弟ではないかと心配だ。もしそうだとすると両親の悲しみはいかばかりか、お前がしっかりしなくてはいけない、という内容であった。新聞記事を読まれただけで、その遭難者の名とご自分の学生の名とを結びつけて、この学生の帰省先の住所を調べて速達をくださった。ゼミナールの学生でもない、マンモス大学の一受講生に対してである。当時大学四年生であった私は、これで進路が決定的となった。
先生のこのような温かさと並外れた懐の広さや徹底的なご配慮は、反面で大変厳しいご指導ともなった。八月には五年ほど前まで毎年三泊程度の勉強合宿をしていただいたが、それは朝四時半起床から、深夜12時ないし1時までの間、朝食の30分、昼食時の1時間半、夕食時の2時間を除いて全て勉強である。先生に質問攻めにあい、暖昧な返答では許されない。この合宿は妙高高原で行われることが多かったが、ご指導は上野で列車に乗るときから始まったこともある。上野駅で200~300ページの洋書を渡され、これを列車に乗っている間に完全にマスターしなければならない。合宿所に着くや、ただちにこの内容を発表させられ、質問攻めにあう。
私がこの合宿に参加し始めた頃、先生は60歳を越えられ、慢性的な微熱に悩まされておられたが、その苦しい御身体を押して、このような厳しいご指導をしていただいた。先生の強い精神力とご愛情を今さらながらに痛感し、不肖の身は悔恨と痛惜に堪えない。しかし先生の御魂は、私の胸のうちに愈々確かとなり、先生との新たな一段と深く静かな対話が始まる気がしている。”難波田先生、ありがとうございました”。
最近の先生は、仏教の「事理」を援用されて、ご自分の哲学を説かれていた。こと(事)すなわち現象と、事わり(理)すなわち原理とが相依相俟の不可分な関係にあり、とりわけ「理」を我々がどのように捉えるかによって、歴史が決定されると説いておられる。近代以前の人々は、この理をヘテロノミー(他律性)と考えていた。全ての現象や人々の生活は、神や支配者に依存するというのである。しかし近代になると人々はこの原理をオートノミー(自律性)と捉えるようになった。一切の現象や人間は皆、それぞれ独自の存在根拠に基づいており、自律性をもっていると考えている。このオートノミーゆえに、近代科学と技術が発展して物的繁栄がもたらされた。しかし他方でオートノミーゆえに環境破壊と文化の退廃がすすんだ。なぜならオートノミーは、人間生活の全ての欲望や領域の自律性を認めるが、こうした解放の下では特に物質的豊かさの追求が支配的となり、これが他との関係を考慮することなく、自律的に追求されるからである、と先生は説かれた。
言うまでもなくヘテロノミーもオートノミーも真実在の原理ではない。人類はいまだ真の原理に気づいていない。先生は真実在の原理をアレロノミー(相互律)と命名された。
我々は事物を厳密に認識するために、対象を分析して、多くの部分に分け、それらにA、B、C等々の名をつける。そのためにAはAだけで、BはBだけで、CはCだけで実在するかのごとき錯覚に陥り、近代的なオートノミー認識が出現した。しかし実際には、AはBやCと相俟ってはじめて実在しうる。光は闇により、闇は光によってはじめて存在しうる。人間生活でも同じで、「楽は苦の種、苦は楽の種」である。一切の事象は、このように自らに存在根拠をもたず、他との相互依存関係によって、はじめて実在しうる。先生は真実在の原理をこのようなアレロノミー(相互律)と捉えられた。
私は私であり、光は光であり、闇は闇である等々の近代の分析的科学的認識は、事象の認識手段としては正しい。しかし事象の実在のあり方は、相互律に従っている、したがって近代のオートノミーの誤りは、この原理が対象を認識する際の原理であることに限定せずに、これを実在の原理でもあると誤解したことにある。近代の根本的誤謬は、このように「である」と「がある」を混同したことだと主張され、先生はこの観点から一貫して近代の超克を説いてこられた。当然にもその超克は、オートノミーからアレロノミーへ、つまり社会の営みの一切が、この真実在の原理の自覚に基づいて為されなければならないし、必ずやそうなると確信されていた。
したがって周知のごとく先生は、早くから資本主義は「社会化」され、社会主義は「自由化」されて、相互に歩み寄ると主張されていた。また豊かな社会から美しい社会へと主張され、人間生活全体における経済の占める位置については、一方では自然、したがって資源の枯渇と環境汚染への配慮、他方では精神、したがって人生を意味づける目標としての文化への配慮が重要視されねばならないし、必ずそうなると主張されてきた。
難波田先生のご指導の中に、「たった一つの言葉」というのがある。これはどんな大著でも、その本質を一言で要約できなければいけない。そうでなければ本を読んだとは言えないし、それが不可能な本は、読むに値しないということである。先生はご自分の体系を「アレロノミー」の一言で要約され、ここから一切をご説明された。しかしここに到達されるまでに五つの段階を踏まれた。第一段階は戦前の「国家と経済」の出発である。これは、国家と経済というように、異質なものを「と」で結びつけるわが国最初の研究であったが、この点からすでに先生には無意識にアレロノミーの自覚があったのではないかと思われる。それはともかく第一段階で確立され、それ以降の難波田学を貫いた特質として重要なのは、理論と実践の統一ということである。
経済は必然の論理をもっているが、国家はこの必然を修正して経済のあり方を変容する。先生はこうした「必然の変容」の解明によって、現実の歴史形成過程が完了する前に、これに参加し実践するための理論的根拠づけを明らかにされた。哲学はいつも来方が遅すぎる。現実の世界が形成過程を完了して、おのれを仕上げた後ではじめて出現するというへーゲルの「ミネルヴァのふくろう」から、難波田学は脱し始めた。
しかしこれは単に形式的な根拠づけにすぎず、実際の実践のためには、実践の理念が明らかにされなければならない。そこで先生は第二段階に到達され、昭和16年の『国家と経済』の第四巻において、国民経済三重構造論を明らかにされた。国家と経済の根底にある国民共同体の理念を説かれたのである。それ以来先生は、この理念を語り続ける実践に入られた。
戦後になると先ず『スミス・へーゲル・マルクス』で、この三重構造の弁証法的基礎づけをされたが、これが難波田学の第三段階にあたる。ついで第四段階に入ると、理論とそれから導き出された政策および歴史との関係を体系化された(昭和28年の『国家と経済』)。経済の必然的なりゆきを説明する理論と、この必然に対して価値判断を下してこれを修正し変容するための政策、および両者の総合された軌跡としての歴史の三つの体系的把握である。そしてこの歴史の根底に共同体の理念を見、共同体の実現に向う歴史こそを、歴史の本質と捉えられた。
ここにおいて第一段階の「必然の変容」という実践の理論的根拠づけと、「国民共同体」という実践の理念とが統合された。理論と政策は、歴史の流れの中で共同体の理念の実現に向って統合されていくほかはないと言うことを、史的弁証法的に、かつ理論的体系的に解明された。我々は今日のバルト三国の独立や東欧の動きを目のあたりにして、先生の民族共同体のご見解の深さを、あらためて痛感せざるをえない。
このような独自の理論と実践の総合体系の構築をとおして、先生は一貫して共同体の理念を説く実践を続けられた。こうした第四段階は、先生の追放解除間もない頃であったことも影響し、この実践は先生ご自身にとってはすさまじい「のめりこみ」であった。しかしこれは、理念としての共同体を彼岸にみて、これに現実を近づけようとする実践であったから、ユートピア的な辻説法の感が強かった。すべての現象が究極的真理である共同体理念に収斂するという上昇の理論体系であったから、これも当然であったと思われる。
この上昇体系はしかし、たとえば近代経済学に代表されるような抽象的なモデルではない。つねに現実との係わりにおいて実相を原理・原則から解明して、確実に方向性を与えるものである。したがってこの体系は、下降体系に転ずる多くの契機を、自ら生み出してゆく。そしてこれらの契機は、全体として普遍的に解明されずにはおかない。かくして先生は必然的に「死の跳躍」に遭遇されて、第五段階へ入られ、アレロノミーを説かれるようになった。
真の共同体は決して彼岸にある理念ではない。現実そのものが共同体の理念に根ざした真の相であり実在の姿であると、これまでの考え方を180度転換させた。実在の姿こそ共同体であり、ここでは矛盾したものが、矛盾したままで相互に他を要請しあっており、アレロノミー(相互律)が支配している。ところが近代人は悟性を信頼するあまり、つまりAはAであって非Aではないという合理的思考を絶対視して、Aと非Aがそれぞれ独立して自律的に実在するものと思い込んだ。思惟の論理もしくは認識の原理であるオートノミーを、実在の論理にしてしまった。
例えばいわゆる体制についても、自由と平等(正義)とは本来的に相互依存関係にあるから、どちらか一方の原理だけに基づいた純粋な体制、自由主義体制もしくは社会主義体制は、本来的に存在しえない。現実の体制はつねに混合体制である外はない、と主張された。そして自由主義体制も社会主義体制も、いずれも思惟の論理が生み出したイデオロギーであるから、いずれの思想も必然的に行きづまる、と説かれた。
このように先生はアレロノミーによって体制の本質を解明されたが、体制にかぎらず一切の現象について、アレロノミーから説明された。すでに触れたとおり、とりわけ近代文明の栄光と悲惨の由来を、実在の論理であるアレロノミーと思惟の論理のオートノミーとを混同した点にある、と主張されている。
かくして暗闇の中から飛び立って真理の陽を見られたこのたぐい稀な碩学は、再び洞窟にひき返して、つまり上昇から下降に転じて、「いたる処にあるが、何処にもない」としか言いようのないこの陽を、日々の暮しの中で説き続けられるようになられた。
それにしてもアレロノミーの陽とは何か。プラトンは一切の究極的な原因(アイティアー)を、他の必要条件から峻別して、これを「善」と示した。先生のいわれる相互律は、比喩的に言うならば、この「善」の実相ではないだろうか。それは説明することは出来ても、その理解は実践の程度に応ずる。実践なしにこれを問うことは無意味であり、実践によって初めて捉えられるごとき究極のなにかである。
難波田学は、こうして上昇と下降の循環的体系として完結し、それゆえ理論と実践が完全に結合して、言葉の正しい意味においてフィロソフィアを展開するにいたった。
世の中は、その時々の世界にどっぷりと漬かり、なりゆきに流される傾向が一般的である。しかし世の中を根本的に原理的に洞察し、全体を見通された先生は、常に時代を相対化される。したがって現実のこの世は先生にはいつも「たそがれ」としか映らない。それゆえ先生は何時も飛び立たれる。とりわけ御自身の考え方を180度転換してアレロノミーに到達されてからは、ますます飄飄乎として自由闊達に説法を実践された。ミネルヴァのふくろうは、何時でも何処でも飛び立ってきた。遅すぎるのは世人の方であり、先生の説法を10年かかっても理解しえない。そして世の中が押しても引いても駄目となり、やりようが無くなってから、ようやく先生の提言の意味が理解できるようになる。したがって先生は乱世の学者とも、悲観論的経済学者とも世人には映るのであった。
「もし人間生活がすべて自然現象のように因果必然性に縛られているとしたならば、運命といったもののありようがない。しかしまた人間が、もし『汝為すべきが故に為し能う』といった意味において自由であるとしたならば、これまた運命のようなものは考えられない。必然でも自由でもなく、その中間において必然をできるだけ巧妙に結びつけることによって、できるだけ自由になろうと試み、失敗し、また試みる、そこにはじめて運命と呼ばれるものが出現するのである」(『技術の哲学』)
「真理は単純である。しかし同じ単純にも、深いと浅いの無限のちがいがあることに気づいてほしい。長い間の思想的遍歴を経て到達した単純には、遍歴中のすべてのものが全部含まれている。マイナスを無限に掛け合わせたプラスである。ただのプラスとはまるでちがう。限りない求道が必要である所以は、ここにある」(「真理は単純だが」『風流抄』)。
「戦いは五分の勝ちをもって上とし……は武田信玄の遺した教えであるが……理詰めに論理を展開して行くが、結論の三、四歩手前のところで止めて、その先はいわないでおく。あとは、考え続ければ必ずその結論に到達するが、教えを受けたものは自分が考え、自力でその結論に到達したと思い込み、考えることの喜びを体得するからである(「五分の勝ち、五分の講義」『風流妙』)。
このように先生のお言葉は、かぎりなく深く優しい。それらを引用すれば限りがない。
先生の学問、ご生涯は、アレロノミーの背後でこうした人間観に貫かれていた。先生は、大学で倫理学を専攻しようと思ったが、事情が許さなかった、と話されたことがある。専攻はされなかったが、先生のご生涯は厳しく優しい倫理観に貫かれていた。
心からご冥福をお祈り申し上げます。