自民党議員のパラダイム
古代ギリシャの自然哲学では、すべての物体は故郷に帰ると考えられていた。それゆえ例えば鉄と綿を落とすと、鉄の故郷は一番遠いから鉄が早く落ちると言う。この「一切のものが故郷を持ち、これに帰還する」と言う「思考の枠組み(パラダイム)」が、ギリシャ人の基本的な考え方であった。ちなみに地球の中心部「コア」は、鉄とニッケルからなる「NiFe核」であるが、古代ギリシャ人が何故これを見通せたのか、実に不思議である。
しかし多くの現象がこのパラダイムでは説明のつかないゆえ、西欧中世では神を中心にする「スコラ哲学」のパラダイムが一般的となり、例えば「天動説」が唱えられた。けれどもこのパラダイムでも説明のつかない事態に対しては、これと矛盾する説明をした。
ニュートンなどがこの矛盾する説明の思考枠組みを追求した結果、スコラ哲学より広い「古典物理学」のパラダイムが明らかとなり、「地動説」も一般的となった。しかし、さらにパラダイム転換が生じて、アインシュタインやハイゼンベルグの「相対性理論」となってきた。
ところで自民党の「派閥政治資金パーティー」の問題は、これまでの慣行に流され続けてきた結果だ。それゆえこのカネの処理の仕方が、法律違反であることに気が付かず、或いは気づいても問題にせず放置された。それほどまでに「派閥資金パーティー」が、無自覚な「思考の枠組み(パラダイム)」にさえなっている。
さてガルブレイスは『権力の解剖---条件づけ』(山本七平訳、日経文庫)の中で、「威嚇権力」「報償権力」「条件づけ権力」の三つの権力を指摘している。これらは夫々「こわもて権力」「餌釣り(カネ)権力」「パラダイム権力」と言い換えられる内容だ。自民党の派閥政治資金の処理は、先ずはこの「条件づけ権力」の「無自覚なパラダイム」に従った法律違反である。
しかしこの問題には、直ちに明らかなとおり「威嚇権力」も「報償権力」も関わっている。派閥の資金に貢献しない議員に対しては、「今後の議員街道」が派閥支配者に拠って保証されず、出世ばかりか議員の道が断たれる可能性もある。自民党議員にとって、この「威嚇権力」は極めて大きい。
他方で「派閥政治資金パーティー」に対する貢献度に応じて、次の自分の出世ポストが影響を受け、しかも自分の政治資金の大きさも左右される。したがって自民党派閥議員は、このような「報償権力(餌釣り権力)」に自ずと飛び付かざるを得ない。
近代文明のパラダイム転換
ところでガルブレイスはこの三つの「権力」を解き明かし、21世紀には特に「条件づけ権力」が、大きな意味を持つと主張した。多くの人が無意識に従っている思考パターン、思考条件のパラダイムが問題になるということだ。しかしこの近代的な合理主義のパラダイムに従って、科学技術および経済の展開など、近代文明が大いに発展してきた。
けれどもこの近代文明が、他方で「大気・水質・土壌汚染」と「温暖化現象」を酷くした。そればかりでなく様々な「自然の破壊」が、もはや限界に近付いた。また人口減少や地域共同体の紐帯の弱化などで、地域生活それ自体が困難になってきた。さらに例えばITや生成AIの技術展開が若者の自殺をはじめ、多くの人々の異常な精神状態を産んでいる。このように科学技術も、様々な深刻な問題の要因となってきた(次表を参照されたい)。
<近代文明の構造と展開プロセスおよび功罪>
(1)近代化の思想的制度的構造-----経済主義思想⇒⇒経済グローバル化、中央集権国家制度
(2)近代化の3つのプロセスと成果(3つの人間解放)
合理的科学的思考⇒⇒魔術・精神的抑圧からの解放 工業化⇒⇒貧困からの解放
民主化⇒⇒政治的社会的抑圧からの解放
(3)近代化のマイナス(3つの負荷)
自然破壊(大気・水質・土壌汚染) 地域共同体の破壊(過疎過密社会、少子高齢化社会)
精神と文化の劣化(過剰な物的豊かさ)
(4)近代化に由来する具体的問題
①環境問題 ②食料・農業問題 ③エネルギー問題・原発 ④所得格差問題
⑤エイズ(AIDS) ⑥ウイルスのパンデミック、その他
要するに近代社会が当然視して「無意識」に従ってきた思考パターン、人々が問題にせず歓迎し、その展開を享受してきた「近代的思考のパラダイム」を、今や根本的に考え直すべき時代となっている。
しかし他方で人々は、精神的に拘束しされてきた「因習」「慣習」「迷信」などの「魔術」(M.ウェバー)から、このパラダイムに従って解放された。また多くの人々が貧困から解放された。さらに近代的パラダイムが「民主主義」を推進して、人々を「独裁政治」や「地域社会の拘束」から解放してきた。
したがって近代的パラダイムの転換は不可欠ではあるが、このパラダイムに基づいた正しい成果をも放擲するべきではない。これらを正当に評価し追求しながらも、同時にパラダイム転換を図る必要に迫られているのである。
英語の「危機(crisis)はギリシャ語の「クリノ(κρίνω」に由来するが、これは分岐や分岐点を意味する単語である。例えばこれまで歩んできた山道を、そのまま進んでいくと断崖絶壁に突入する。したがって方向転換して新たな道へと歩まなければならない。この分岐点が、言葉の本来の意味における「危機」に他ならない。
近代文明は、今まさにこの危機に差し掛かっており、新たな方向に舵を切らなければならない。とりわけ経済成長主義、カネ次第や青少年に対する金融投資推奨策、自民党藩閥政治のような「免れて恥なし」というごとき「倫理観の欠如の蔓延」などから抜け出し、真善美聖などの価値理念の再生と「森羅万象に対する思いやり」を重視する思考に向かうべきである。